Mad Man Sutra 8. 肉体の神秘



久しぶりに大風邪を引いた。
少し風邪気味でノドが痛いにもかかわらずライブでシャウト。その後、殆ど声がつぶれているにもかかわらず調子に乗って一杯やりながら明け方まで大声で笑いながら喋り、その翌日は親戚の法事でこれまた大声で呑みながらの喋くり三昧。これが見事に実を結んで、声が殆ど出なくなった。

夜中寝ているとノドの痛さに目を覚まし、ゲホゲホと咳き込み、そのせいでさらに増した痛みに耐えながら洟や痰を大量に排出していたのだった。

それにしても何と大量の痰であろう。この数日間で消費したティッシュペーパーは4~5箱に及ぶ。どれだけの老廃物、毒素がこの身体に詰まっていたのだろうか?それに加えて、発熱や下痢もしたので相当なデトックスが行われたということになる。ううむ、素晴らしい!
本当に有り難いことである。

咳が治まった今、胸の辺りが軽くなり、肺の活動が随分とスムーズになったように感じられる。
この風邪を引く前は深く息を吸った時に、多少の詰まり感があったものだが、今や完全に解消されているのだ。
勿論、今回も一切薬などは摂取していないということは言うまでもない。
いやいや本当に有り難い!またまた浄まってしまった~!なんと嬉しいことか!!

身体は神秘的な運営の下に日々浄化され、健全な状態を保ち続ける働きがある。
このことは、当ブログ「驚異の圧倒的信仰」でも触れたが、医学的または科学的盲信の為にこの人知を越えた素晴らしい生体システムが無視もしくは過小評価されているという事実は実に愚かというか、勿体ない話だ。

人類は身体への信頼というものを失っている。
自分で作り上げたものでもないのに、肉体を無理矢理そのコントロール下に置こうとしているように見える。

医学、科学、それぞれ研究を重ねてはいるが未だ道の途上である。その途上にあるという事実にもかかわらず、医学が万全かのように振る舞って、人類の多くを医学絶対の信仰に引きずり込み、殆どその布教活動は大いに成功を収めている。

恐らくそれは生や死への不安、恐怖から逃れようとする心がこの状況をさらに推し進めている原因の一つとも推察できるが、じっくりとその不安や恐怖を正面から見据えて観察し、その根本原因を解決しようとしている様子は殆ど見えてこない。

身体は病気になるものであると頑なに信じ込んでいる。
それ故、その頑なに信じた想念の通り“病気”になる。
勿論、身体への信頼があれば、決して病気といわれる“症状”が起こらないと言っているのではない。
病気というのは“言葉”である。お腹が痛い、頭が痛い、なにかデキモノが出来たという症状を指して「これは病気だ。」と“決めた”だけのことである。
そして病気は悪いものなので排除せねばならないという考えが寄り添うように作られる。健康vs病気の闘いの始まりである。

身体は「健康システム」を運営し続けている。そしてその働きとして“浄化作用”が起こる。この健康システムの一部である浄化作用のことを病気と呼び、さらにその症状別に名前をつけて保存したという次第である。元来、“病気”は健康であるが故の証なのだ。
この当然のことが忘れ去られている。実にシンプルであり、あからさまな真実なのだ。しかし、最も身近な自らの身体の働きを観ることはなく、多くの人類は余りにも遠くばかりを見ているようでかえって不思議に思うことでもある。

浄化作用を病気という名前をつけ“悪いこと”として扱い、この神秘なる働きをあらゆる方法で抑圧し、そのひとつである浄化作用を止め続けている。
その結果、当然ながら微妙なる健康システム自体を弱体化、破壊し、生命力を身体から奪い去ってしまったのだ。
“病気”というものが我が物顔で君臨し、人類はその前で恐れひれ伏しているというのが現在の状況というものであろう。

病気になりますよ、大変ですよ、薬を飲みましょう、保険に入りましょう、まず医者に診て貰いましょう、死んだらどうするんですか~?

マインドの底の不安と恐怖をぐらぐらっと揺さぶり続ける声がテレビ、新聞、インターネット、そして身近な家族、兄弟、恋人、友人達を通して、四六時中あなたに届けられている。
生まれ持った生命の神秘を守り、限りない喜びと感謝を楽しむことが出来る否か。

それには、少しの勇気と信頼、知性が必要だろう。

病気というものがあるとしたら、この人類の錯覚、自らの身体の神秘を忘れ果ててしまったという悪夢こそがそれなのかもしれない。




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