Mad Man Sutra 9. 生まれては死んでいく


生まれては死んでいく
自然の摂理である。
気がついたら此処にいた。この世に生まれたのだ。
生まれたからには死んでゆく。
生まれなければ死ぬこともない。
死は必定であり、宿命である。

死は怖いもの、不幸な現象、忌み嫌うべきものという観念が世間を覆っている。
誰かが死んだら「惜しいことをした。」「残念なことです。」「お悔やみ申し上げます。」と言わねばならない。
たとえ100歳近くまで生きた人にでも「長生きされておめでとうございます、よかったですね。」と言うことは身内はともかくとして他人はなかなか言える空気ではない。

テレビのニュースでも有名人の誰かが亡くなると、アナウンサーは声を落として深刻な表情を作り「ご冥福をお祈り致します。」と言わねばならない。“しめやか”でないといけないのである。そして、それを見ている視聴者も死は不幸な現象であるという固定概念をさらに強固にするのだろう。

死は不幸なものという固定観念を受け入れた人生は必ず不幸な結末を迎えなければならないということになる。
もうすでに自分は生まれてきてしまっている、いつかは死を迎えなければならない。最後には不幸を迎えなければならないのだ。人間とは何と不幸な生き物なのか・・ということになる。 

この世に生まれた時はたいていの人が周りの人達から「おめでとうございます。」「本当に良かったですね。」と言われ祝福されるのが常である。
将来どんな人間に成るかは分からない。善人なら良いが、もしかすると泥棒とか人殺しになってしまう可能性だってあるはずなのに判を押したように「目出度いことです。」と祝辞を言われる。

しかし、めでたくこの世に誕生したと言うことは、既に述べたようにその瞬間から死が始まったということになる。
誰もが知っていて心の奥では気がついているこの事実は余りにも不幸で悲しいことなので、多くはそれをひたすら忘れようと努力し始めることになる。

勉強、恋愛、ビジネス、出世、名声、酒、麻薬等々、ありとあらゆる一番大事なこと以外の活動にエネルギーを注ぎ、この不幸で悲しい“死への旅”を忘れようとする。
しかし、これを解決しない限り根本的な人生の幸せというものに気付き大安心することはない。

忘れたつもりでいても、人生はこの真実を隠し続けていてはくれない。
時が来ると身近な者、愛する人の死に遭遇することになる。それを目の前にすることによって、この“あるがまま”の現実が露わにされる。

いつも遠ざけ、見ないように努めてきた、“人間は必ず死ぬ”という真実が否応なしに目の前に顕されるのだ。
これは大いなるチャンスであり、目覚めの機会ともいえる好機なのだが、多くはこれを逃す。

目の前の死という現象を深く観察し、自分もやがては死んでゆくという事実を想像し、この現実を深く受け入れる。そして、それを解決するにはどうしたら良いのだろうと熟考、瞑想し、その道を探し始めるということが起こるのは極めて希な出来事のように見える。

心の深いところにある恐怖が、それを遠ざけようとする。
見なくてすむものなら見たくないのだ。
目の前の死という神秘なる現象はまさに己を根本から救うということの切っ掛けにもなる宝物のようなものとも言える。

しかし多くはそれを避け、無視し、他のことに目を向けて気を紛らわそうとする。
天恵とも言うべき貴重な機会を逃してしまうのだ。

愛する者の死を目前にして絶望するのなら大いに深く深く絶望するべきだろう。
吾が胸に到来している嘆きや悲しみの感情が深ければ深いほど・・大いなる無力感、脱力感、どうにもならない絶望感があればあるほど、完全なる諦めのスペースに到達することができる。ある種の“無”とか“空”とも言えるかも知れない。

そして、そこに渇望が生まれる。美しい渇望である。
この生死の問題を解決したいという切なる願いがそこに生まれる。それは、この輪廻からの脱出をしたいという、覚りを求める菩提心というものの芽生えでもあろう。

生まれては死んでゆくという事実、これをよく観察、探求し解決した暁には途方もない自己からの解放という天恵が降り注ぐ。持って生まれた輝きと至福を余すところなく享受できるというこの上ない利益が待っている。

それを知った時、それを解決した時、人は初めて本当の意味で“生きる”ことができる。
心の奥底から我々を支配していた恐怖の呪縛から解放され、喜びに満ちて大いにこの人生を歌い踊り、楽しむことができるようになるのだ。

先ずはこの生死という自然の運営を真正面から見据え、観察するということから始まる。
少しの勇気を持ってこの探求を始めることが出来たなら、このスタート自体が大いなる祝福だ。
ありのままの真実に目を向ける瞬間、それはそこにある。
その真実は隠されてはいない。それはまさに目の前にある。

意識がそこに向けられるにつれ次第に秘密が明らかにされていく。恐怖のために見ることのできなかった“神秘”がベールを脱ぎ始める。
そしてその探求の末、此処にいる私は正に不死の存在であるという厳然たる事実を大いなる喜びと共に観ることになるのだ。




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