Mad Man Sutra 2.光陰矢のごとし煮染めの味も染みていく



 時を懐かしむことは甘辛いペーストをカダイ系のカレーに入れ、パクチーを山のようにトッピングしたようなもので、非常に楽しいものだとインドの聖者たちは言っているかもしれないという可能性をも垣間見せてくれるはずである。

   兎にも角にも、余りにも馬鹿馬鹿しい状況であるということには変わりないのであるが、それにしても我が頭の中は、その理解力を遙かに超えた事柄にどう対処して良いのか依然としてカスピ海ヨーグルトを頼りにしている有様だ。
      
   フジちゃんも突然オシッコをしたあの交差点で消えて以来、再び姿を現すことはないようだ。その甥のタカチャンも土木作業用の一輪車を押したまま蒸発したように虚空に消えた港北ニュータウンの伝説である。
      
   何はともあれ、命よりお金の方が大事であるという胸のときめくような思想の根底にあるものは、原理哲学者の推察するとおり、透明な心を失ったミミズがウナギとなって人類に奉仕したいと望み続けていることと同義であることは明白なことである。

しかもこれはその時の天気にも左右されることであり豆腐の角に頭をぶつけて蒟蒻を口にくわえた親父に薄ら笑いを浮かべられて問答を仕掛けられる位にRock'n Rollなことでもあると歴代の宇宙研究者たちが口をそろえて言明していることなのだ。
      
  それにしても有り難いことだ。宇宙人の私が日本語を操れるということは。
連綿と続く生命の連鎖、遙か遠い先祖たちのお陰であると感謝するということは霊験あらたかな五千万円の壺を抱きながら二段ベッドの下の段でウオウオと小声で叫ぶ椿鬼奴にも匹敵する尊い行いかもしれないと観音様も仰っておられるはずだ。

  これは、ここまで忍耐強くこの文章を読んでくれている人類の精鋭たちのような宇宙的意識人の祝祭であるとここにまさしく高らかに宣言する次第である。
      
  逃げるが勝ちという言葉もある。勝った負けたは時の運でもあるが、その勝負自体が中空に消えてしまうということも有り得るのがこの宇宙の不思議ということでもある。

  ネトウヨとサヨクを対峙というよりもただ単に会食の席に着かせられないかと考えた私は品川駅の西口で両陣営からそれぞれ二者を呼び出し待ち合わせを試みた。

   8時間待ったがしかし両者とも何の連絡もなく現れなかった。予想通りの展開、我が意を得たりという甘酸っぱい想いは夜の東京には似合いすぎるほどで、それを観ている心はいたく感心した。
      
  なんという喜びだろう。噴火口の上で宴会を開くというのは。
 コエンザイムが財務的な爆発をしても無理はないのだろうとマスターは言っていたような気がする。ましてや雲の上は晴天である。

 これは「屋根裏に上った鰻は二度と蒲焼きになることはない」という人類の宝とも言うべき光り輝く教えさえもが日の出た後の月光のように時の流れを儚いものにさえ感じさせてしまう出来事である。






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