Mad Man Sutra 6. 何とも言えないですな


「何とも言えないですな。」
先日、人と会話していて、この言葉をよく口にするということに気がついた。
何とも言えないことが多いのだろう、というより殆どの物事が「何とも言えないこと」なのだ。

物事の白黒、善悪を言い切ってしまうのは実に簡単なことで、あまり知性というものを必要としない。ただ単に物事に対する探求を打ち切って、取りあえず潜在的なものを含め好き嫌いなどを基にして「大体の所」を見計らい「こっちにする。」と決断するだけのことなのだ。

決断するというのは気持ちの良いものである。どちらにするかという苦悩や探求から解放される瞬間でもある。

しかし、この気持ちの良さの誘惑に乗らずに、さらにその物事の探求を”思考”を使って続けることは骨の折れることだ。
彼方の検証、此方の検証・・観察につぐ観察、平衡感覚を保つことに注意を注ぎ、さらに検証・・。
結果、「どちらともつかない」という状況に入っていく。この白黒つかない状況というのは居心地の悪いものだが、それを受け入れさらに探求を続けるとその白黒つかない場所に段々と落ち着くことができる。そして答えとも言えないような答えがそこにある。「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」という空間だ。

しかし、思考を頼りにしてこの空間に辿り着くことは、相当な忍耐と能力が必要であり、困難なことであるというのは前述の通りである。

瞑想の手法に観照というものがある。
この「観る」ということを通すと、雲が晴れるようにこの「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」という空間にスーッと入っていき、それを楽しむことが出来るようになる。

起きている状況や物事を何の判断も無くただ眺めている。
そう、ただ単に観ているだけである。続けていくうちに主体と観られている客体が遊離していることに気付く。そもそも客体に対し、何の感想や好き嫌いの感情もなくただ眺めているのだから当然ではあるが。
そうしているとやがて物事の全体が見えてくる。好悪も無い、善悪の判断も無いのでただありのままの全体が見えてくる。その瞬間、本来如何なる善も悪も白も黒も無いのだという理解がやってくる。
さらにそこを通り過ぎていくと、完全な無、空と呼ばれる所に入っていく。これが瞑想手法の目的地ではあるのだが、ここでは省略することにする。この事についてはこちらのURLに詳細がある。

その”場所”に落ち着くことが出来ると、ある種の自信と明確な意識を持って「何とも言えないですな。」と微笑むことが出来るという次第である。
その理解を楽しむことが出来る。頭、思考からの解放を大いに楽しむことが出来るという希有なご利益に恵まれるということになるのだ。

ただの会話の中の相槌ではなく、絶対的な理解と共に言うのだ。「何とも言えないですな。」と。

善いとも悪いとも言えないですな。
そうかもしれないしそうじゃないかもしれないですな。

そうだすべては何とも言えないのだ。

泣いて笑って 笑って泣いて 
苦しいと言ったり 楽しいと言ったり
怒ってみたり 歌ってみたり 
叫んでみたり  踊ってみたり
生まれて死んで 死んで生まれて次から次へ

何とも言えないですな。

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