テレビでサッカーの国際試合を見ていると試合前、応援する日本人にインタビューしている様子が時折テレビで放映される。
「日本は勝つと思いますか?」という質問をされると、
「はい、もちろん絶対に勝つと信じています!」と言う。
勝利を信じている・・。心に誓って勝つと“信じて”いるのだ。負けるかも知れないという疑いを振り払って、力尽くで勝利を願い、懸命に信じているというわけである。
心の底から信じて疑わないというのではない。努力して疑いを振り払っている。
この情景は、“信じる”という事柄を実に象徴している。
念仏を唱えると極楽浄土に生まれることができると阿弥陀さんは言ってます。
ありがたいですね、信じましょう。
でも信じて念仏しないとダメなんですよ~。少しでも疑ったらアウトなんです。みんな悪業を持ってますから地獄へ行っちゃうかもですよ~。ですから信じましょう。
と言われて、「はい~承知しました、信じます」という素直な人はいるかも知れないが、その場合でも心の底から阿弥陀仏の言葉を信じているというわけにはいかないかも知れない。
努力がそこにあるだろうことは容易に想像がつく。勿論、天性の宗教的感覚の優れている純粋なハートの持ち主もいるのだろうが、それは極めて希なことだろう。
教育によって、情報知識を詰め込まれた現代人は、信頼するという質を著しく欠いてきてしまったようだ。
頭、脳味噌が主体の生活である。
頭は情報データを基にした証明が必要なシステムなので、社会生活を送るに当たっては、優秀な能力を発揮する、とても便利なものである。
その反面、データに一致しないもの、未知の事柄をストレートに受け入れるということは苦手としている。
体験や教え込まれた知識を基にして未来を予測することは得意だが、未知のことに関しては信頼という質が必要だ。
信じなさいと言われて、はい分かりました信じましょうということは多くの場合、嘘を伴うことになる。
頭では信じなければならないという思考が作られ、それを実行しようとする努力というものが生まれる。
ガンバって信じようとする。自分に信じることを強要するのである。
それはハートからの、心底からの信頼、幼子が親を無条件に信頼しているような心の質ではあり得ないということは明白なことだ。
教えを信じなさいと言われ、はい、分かりました、信じますということ。これを正確に言うと、はい、分かりました、信じるように努力しますということだ。
“信じる”というのは、努力して信じるということだ。
頑張って無理をしてでも“信じる”ということである。
多少の疑いがあっても信じるということを強いるのだ。
要するに自分自身に嘘を強制し、自分は信じているのだということを何とかして作り上げようとするということである。
その努力を続け、疑念を潜在意識の闇に押し込め、ほぼ完全に封印することに成功すると、「自分は信じている」という思い込みが心を支配することになる。
奮闘努力の果て、自分は信じているということを信じ込んでいるマインドを完成させる。
私は信じている。今や信心を獲得したのだと“信じている”のだ。
喜びに満ちて、それを体験し理解した暁に信頼の境地に達したということとは全く別の次元の話だ。
今や心の奥底に押し込め、見えないようにしてしまった疑念は、深いところからその波動を送り続けている。
表面を取り繕ってはいるものの、心底にある未解決の“疑い”は、全面的な歓喜をその人に許してはくれないだろう。
人工的に作りあげた“私は信じている”という信念は、あまり役に立たない。
0 件のコメント:
コメントを投稿